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愛媛県大洲市長浜町、伊予灘に浮かぶ青島。島民15人の小さな島に、100匹を越える猫が
暮らしている。昨年秋にインターネットなどを通じて噂が広まり?猫島?として、全国から
観光客が訪れるようになった。

 高齢者が多くを占める島には宿泊施設や飲食店はおろか、自動販売機さえ無いが、
?猫口(にゃんこう)密度?の濃さに惹きつけられる猫好きの来島が後を絶たない。


寝転がるとこうなるそうだ




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アメリカで最も有名で感動的な墓地を訪れた訪問者は、なだらかな起伏の広大な緑地を覆う、限りなく続く同じような白い大理石の墓石の列に畏敬の念を抱きます。ここでは、時折聞こえてくる礼砲や、多くの米国の軍葬を締めくくる「葬送ラッパ」の悲しげな旋律のみが、沈黙を破ります。

米国独立戦争からイラクでの戦争に至るまで、アメリカ国軍の30万人を超える退役軍人が、ポトマック川を見晴らすこの2.4平方キロメートルの静かな土地に眠っており、100を超える埋葬式が今でも毎週行われています。その数があまりに多いため、この墓地のスペースは2020年までに空きがなくなることが予想されています。 ここはアメリカの英雄にふさわしい、美しく、厳粛な埋葬地で、歴史は一つ一つの生命ごとに刻まれていくことを思い起こしてくれます。

この土地は、元々はロバート・E・リーという人が所有していたものでした。彼は首都を一面に見渡せる丘の上に立つアーリントンハウスと呼ばれるギリシア復興様式の豪邸で長い年月を過ごした後、バージニア州が連邦軍から脱退したときに、南部連合国軍の委託を受け入れたのです。 その後まもなく連邦軍はポトマック川を渡り、アーリントンを占領しました。そして1864年に連邦軍の大将は、リー将軍を処罰するのに最適な方法は、彼にとって裏庭のような場所に連邦軍の死者を埋葬することだと考えたのです。 ここには約16,000人の連邦軍兵士が眠っており、終戦後、この私有地と約0.8平方キロメートルのその周辺の土地が国有墓地として確保されました。

床から3.5mの高さの天井までがアンティーク家具や複製品で覆われたアーリントン ハウスのほかに、アーリントンで最も訪問者数が多い場所(そしてアメリカで最も訪問者数が多い墓地)は、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ大統領の墓地です。 永遠に燃え続ける炎と、有名な「Ask not (国家が何をしてくれるかを問うのではなく~)」の就任演説の引用が刻まれた低い大理石の壁で飾られたこの墓は、弟のロバート・F・ケネディと妻のジャクリーン・ケネディ・オナシスの墓の近くにあります。 巨大な白い大理石でできたメモリアル円形劇場(Memorial Amphitheater)を越えると、第一次世界大戦、第二次世界大戦、および朝鮮戦争で亡くなった無名戦士を葬った無名戦士の墓(Tomb of the Unknowns)があります。

この墓は、機械のように21歩前進し、21秒停止する敬虔な動作を前後に何度も繰り返す米国陸軍第三歩兵師団の兵士によって守られています。この動作は国の最大の栄誉である21発の国家敬礼を象徴しているそうです。



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 千妙寺は、平安時代に慈覚大師円仁(794~864)によりの開創。
観応2年(1351)に亮守が現在地、筑西市黒子に中興開山したことに始まり、天台宗三昧流の関東の拠点として、
さらには、伝法灌頂(でんぽうかんじょう)道場として栄え、盛時には末寺・門徒寺が七カ国に600余か寺にも及んだ。

その後、総本堂総(通称釈迦堂)は天正11年(1583)に落慶したが享保13年(1728)12月に将門の乱の兵火によって
焼失したが元文3年(1738)に復興して現在にいたる

 建物は、建物は江戸時代建築の特徴を残し方五間、入母屋造りの唐破風付一間向拝で銅板葺とし、
外陣入口の双折両開桟唐戸(もろおれ りょうびらき さんからと)となっている。

そして、寺内には
銅五鈷杵 
銅鈷鈴  
絹本著色毘沙門天二脇侍像 
絹本著色刀八毘沙門天星宿像 
絹本著色馬形護法童子像
茅屋山水蒔絵硯箱 
絹本著色護法童子像 
絹本著色日吉山王曼荼羅
等が納められている

尚、絹本著は京都画僧 吉山明兆 作で
室町初期の東福寺の画僧。淡路島に生まれ,若くして同地の安国寺に入り,
大道一以(1289‐1370)の弟子となり,師より吉山(きつさん)明兆の道号と法諱(ほうき)を授けられた。
安国寺において画ばかり描き禅の修行をおこたったので,師から師弟の縁を切られ,
大道に捨てられた破れ草鞋(わらじ)にたとえ,自ら〈破草鞋(はそうあい)〉と号し,
後に〈破草鞋〉の印章を用いた。その後,彼の画才が認められ,大道和尚に従って東福寺にのぼり,
終生,堂守の殿司(でんす)の職にあり,〈兆殿司〉と呼ばれ,画僧として活躍した。 画僧が描いたものである

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 妙西寺はもと善陽寺と称し、真言宗の寺であった。

六代蟠龍斎正村の母にあたる水谷治持夫人は生前薙髪して比丘尼・祥雲院殿蓮宝妙西大姉となり
妙西寺、もと善陽寺に安居
没後、蟠龍斎正村は母の冥福を祈り、禅宗を厚く信仰していたので結城の安穏寺より天秀慧和尚を招いて開山とし、母をその開基とした。
この天正十四年(一五八六)妙西大姉を開基とし
山号の祥雲、寺号の妙西は、母の法名・祥雲院殿蓮室妙西大姉からとり祥雲山妙西寺と呼んだ起こりであり
これ以後曹洞宗に属する曹洞宗 祥雲山 妙西寺と呼ばれるようになったのである。


又、民権激化した時代、自由民権運動のなか茨城県の加波山山頂付近に立てこもり「圧制政府転覆」「自由の魁」などの旗を掲げ急進的な考えを抱いた若き民権家
富松正安他4名が筑西市の妙西寺に葬られ、「加波山事件志士の墓」として市指定文化財(史跡)となっている。

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中村兵左衛門(9代)
【なかむら・ひょうざえもん】

生年: 生年不詳
没年: 安永8 (1779)
江戸中期の商人。常陸国(茨城県)下館藩の城下で業を営む。

別名左教,秋茂。俳号は風皇。

中村家は代々上層町人として町年寄や本陣の役務をなす一方,広く商業活動を営む商家である。
17世紀後半期には大和,摂津の繰綿を大坂,江戸を介して奥州にまで送る遠隔地商業を営み,数千両の取り引きを行っていた。

9代兵左衛門の時代(享保期・18世紀前半)には醤油醸造経営が盛んであり,江戸に販売店をもうけ,小樽で1万樽の出荷があった。

俳句もたしなみ,与謝蕪村とも親交がある。その後,中村家の主業は周辺地域で集荷する 晒木綿の江戸問屋への買次業務に移り,13代兵左衛門は下館藩の農村「復興」策をめぐって,二宮尊徳と関係が深かったといわれる。江戸期における,地方に在住する有力商人の多彩な活動がうかがわれる。

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 筑西市の「ちくせい観光ボランティア協会」は、江戸時代後期に農村振興に尽力した二宮尊徳(金次郎)ゆかりの場所を巡る観光ルートを新設した。
同協会は「地元でもあまり知られていない尊徳の足跡を紹介し、観光の目玉の一つにしたい」とPRしている。

 協会によると、尊徳は現在の筑西市にあった下館藩が財政難に陥っていたのを立て直すため、藩士や豪商などに招かれた。

農村での経済改革は「尊徳仕法」とも呼ばれた。

 市内で尊徳を研究している『報徳壹圓塾(いちえんじゅく)』 が農村復興などに関わった12カ所に史実などを解説した「由緒書き」を設置したのに合わせ、新しい案内コースを設定した。

 新コースは、市役所駐車場の二宮金次郎像や、尊徳を招いた豪商・中村兵左衛門の生家(中村美術サロン)
、尊徳仕法の一つで、治水事業が行われた同市掉ケ島など。

市内各地に点在しているため、車を利用してのツアーコースになる。

 同協会は、これまで地元出身の陶芸家板谷波山の足跡を訪ねる「波山コース」や、市内で創作活動していた洋画家青木茂のゆかりの場所をまわる「まちなか美術館コース」など5つのコースで観光客を案内している。 

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羽黒神社  (下羽黒神社) 筑西市甲(大町)37

 下館初代城主・水谷将勝が1481(文明13)年、領内鎮護を祈願し、出羽国(山形)の羽黒大権現を勧請、西郷谷に建立。歴代城主の崇敬篤く、武運長久、領内安全、子孫繁栄を祈願したと伝えられている。

又、水谷将勝は羽黒神社を中心に下館城の鬼門、風門、病門、天門と、5社の羽黒神社を創建。その後、6代城主・水谷正村(水谷蟠龍斎)が1545(天文14)年久下田城築城の際して、鬼門、病門と、更に2社を創建し、あわせて七羽黒と呼ばれる七つの社を創建した

七羽黒の筆頭神社である大町の羽黒神社のつくりは一間社流造の社殿は、1634(寛永11)年建立のもので
桃山風の建築様式を備えている。
神輿の川渡御で有名な下館祇園祭は、同神社の祭礼で、毎年7月末の木曜~日曜に行われる。
1992(平成4)年には、台座の幅1.4m、高さ3.5m、重さ2tという、担ぐ神輿としては日本一の大きさの「平成神輿」が新調された。それまでの神輿は、1895(明治28)年、日清戦争の戦勝を祝って造られた重さ1tの「明治神輿」で、こちらも渡御が行われている。本殿と愛宕明神立像、絵馬は茨城県の文化財に指定されている。


『天門上羽黒』   筑西市岡芹968-1

 天門に当たる岡芹の羽黒神社。城の搦手につくられた。一間社流造の本殿と寄棟造の拝殿、それに絵馬が茨城県の文化財に指定されている。


『風門下岡崎羽黒』  筑西市下岡崎3-1-7

 風門に当たる下岡崎の羽黒神社。金井町の薬師堂、菅谷神明宮とともに結界を形成する。本殿、拝殿は1956(昭和31)年4月の鷹場町の大火が起こった際で、同神社で延焼がとまったという逸話が残っている。
尚、その際焼失したが同年11月再建され。鳥居は1996(平成8)年、区画整理によって東南の方角に移された。

又、境内には願掛け石があり、「夜半、人に知られずに持ち上げて願を掛けると成就する」、という言い伝えがある。


『鬼門稲野辺羽黒 』 筑西市市野辺。

 鬼門に当たる稲野辺の羽黒神社。明治時代、近隣の神社と共に合祀され、竹島神社となった。

竹島神社は、もとは稲荷神社であったが、明治44年(1911年)、村内にあった星宮神社、神明宮、御霊神社、羽黒神社を合祀(ごうし)し、翌年に現社名(竹島神社)となったとある。

稲野辺の地名は残されているが、竹島神社があるのは市野辺。合祀などの案内板はない。七羽黒で唯一、羽黒神社として現存していない。



『病門外塚羽黒』 筑西市外塚183

 病門に当たる外塚の羽黒神社。以前は境内が船の形をしていたこともあり船羽黒とも呼ばれた。城の搦手である岡芹とともに西口の要衝。1980(昭和55)年、区画整理によって現在地に移された。


『鬼門大根田羽黒』  栃木県真岡市(旧二宮町)大根田

 久下田城の鬼門に当たる大根田の羽黒神社。1995(平成7)年に再建され大根田の羽黒神社には
蟠龍斎を謳った
「畑に地しばり 田にびる藻 久下田に蟠龍なけりゃよい」という言葉が残っている。

地しばりというのは畑の雑草の一種で耕すときに大変不便なもの。
びる藻というのは多年生水草で、 田んぼ仕事の邪魔になる。

蟠龍斉はこのようなものと比べられるほど敵からは煙たがられていた。それは相当に強かったからであろう。



『病門口戸羽黒』 筑西市口戸

久下田城の病門に当たる口戸の羽黒神社。




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