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関城は、足利尊氏に京を追われた後醍醐天皇が吉野山に南朝を開き
南北朝の抗争がはじまる南北朝時代においては関東の南朝の
拠点として北畠親房らを迎え入れたことで知られ南朝方の関東六城

関城
真壁城
大宝城
伊佐城
中郡城
明寺城

の一つに数えられ
結城家2代当主朝広の4男である関朝泰が結城家の所領であった関荘を相続したのち
建久3年(1192年)大宝沼に三法を囲まれたその先端、南へ突き出た地に築城された

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南北朝時代とは

鎌倉時代半ばの寛元4年(1246年)
後嵯峨天皇の退位後に皇室は皇位継承を巡って大覚寺統と持明院統との分裂
そこで鎌倉幕府の仲介にて、大覚寺統と持明院統が交互に皇位につく両統迭立が取り決められこれが南朝時代の発端となる

1333年(元弘3年/正慶2年)、大覚寺統の後醍醐天皇は全国の武士に討幕の綸旨を発し
これに応えた
足利尊氏新田義貞らの働きで鎌倉幕府は滅亡し
建武の新政と呼ばれる後醍醐天皇による親政がはじまる。
しかし、恩賞の不公平により武士階級の支持を得ることはできず。中先代の乱を討伐に向かった尊氏がそのまま新政から離反すると、不満を抱えた武士たちの多くが足利尊氏に従った。

その事に業を煮やした後醍醐天皇は
新田義貞や北畠顕家に足利尊氏討伐を命じる。

新田軍は箱根・竹ノ下の戦いでは敗北し足利尊氏らは京都へ入るが、やがて陸奥国から下った北畠軍の活躍により足利尊氏ら敗北九州へ下った

だが、多々良浜の戦いに勝利して勢力を立て直したのちの翌年に、持明院統の光厳上皇の院宣を掲げて東征する。

迎え撃つ後醍醐天皇側、宮方は新田義貞・楠木正成が湊川の戦いで敗れ比叡山に篭った。

足利尊氏は後醍醐天皇との和解を図り、三種の神器を接収し持明院統の光明天皇を京都に擁立(北朝)その上で建武式目を制定し、施政方針を定め正式に幕府を開く。

だが、奈良の吉野へ逃れた後醍醐天皇、

「北朝に渡した神器は贋物であり光明天皇の皇位は正統ではない」

と主張して吉野に南朝(吉野朝廷)を開き、北陸や九州など各地へ自らの皇子を奉じさせて派遣する。

これにより事実上の南北朝時代が始まり戦乱の世がはじまった。
by なぬし 2013/07/20(Sat)19:59:33 編集
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